慶応高校監督=森林貴彦の犯罪を告発する
スポーツ文化
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不気味で邪悪な慶応高校・森林貴彦とその仲間たち
◆↑から続いています。
前回のブログの中で引用した、
テニスの聖地ウインブルドンにおける
「白以外のテニスウェア厳禁」という
「伝統と慣習」を大切に守ってきた
英国人の叡智に関する記述を読んで
改めて気づいたことがあります。
それは
慶応高校野球部監督・森林貴彦の
「日本の高校野球文化に対する
恐ろしいまでの敵意と憎悪」
です。
甲子園を中心とする
我が国の高校野球文化の
その未曽有の隆盛を支えてきた
名曲「栄冠は君に輝く」の歌詞↓と
▼
雲はわき 光あふれて
天高く 純白の球、今日ぞ飛ぶ
若人よいざ まなじりは歓呼にこたえ
いさぎよし ほほえむ希望
ああ栄冠は君に輝く
風をうち 大地をけりて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ 技ぞ
若人よいざ 一球に一打にかけて
青春の讃歌をつづれ
ああ栄冠は君に輝く
空をきる 球の命に
かようもの 美しくにおえる健康
若人よいざ 緑濃き しゅろの葉かざす
感激をまぶたにえがけ
ああ栄冠は君に輝く
▲
そのメロディ↑を目や耳にして
感動しない日本国民はいないはずだと
当ブログは漠然と考えてきました。
「栄冠は君に輝く」の歌詞とメロディには
日本の高校球児、若者たちに対する
我が国の先人の皆様方の
限りない愛情が込められています。
(作詞した加賀大介は野球球児であったが、
試合中の怪我による骨髄炎のために
右足切断を余儀無くされ、
野球を断念した経緯がある。
この詞には、野球に対する
加賀の熱い想いが強く込められている。)
そして、
長い長い高校野球の歴史を通じ、
これまでずっと
甲子園を目指す球児たちは
「栄冠は君に輝く」の歌詞やメロディを
目や耳にすることで
甲子園に対する憧れを
大きく大きくふくらませ
甲子園を目指し、
「栄冠は君に輝く」の歌詞を具現化したかのように、
一球に一打にかけて青春の讃歌をつづり
(負けたら終わりのトーナメント戦であるがゆえに)
数々の感動的な名勝負を生み出し
多くの日本国民、日本の野球少年たちに
たくさんの夢や希望を与えてきました。
しかし、
この過去の日本の高校野球の素晴らしい歴史、
ドラマ、感動を全否定し
そのすべてを破壊することに血道をあげる
狂人・犯罪者が
令和の日本に現れました。
それが慶応高校野球部監督
森林貴彦です。
森林貴彦は
反日鬼畜左翼スポーツマスコミ関係者の巣窟である
スポーツグラフィックナンバー誌上で
↓のように述べています。
▼
前略
青春の押し付け問題
大人が選手を
自分好みのストーリーに当てはめようとする、
いわば、青春の押し付け問題。
これも高校野球が抱える、
そして解決していかなければならない
大きな課題の一つです。
高校野球はシンプルに言えば、
高校生がただ野球をやっているだけですが、
真夏の風物詩や
お祭りのように捉えている人が多く、
もはや非常に巨大な
エンターテインメントとなっています。
新たなヒーローの出現や
感動的なゲームを望むファンがいて、
また、それを売り込んでいこうとするメディアの存在もある。
そこで過剰に膨らまされたドラマに、
それを望むファンが喜んで食いつく。
こうした土壌が高校野球にはあると思います。
そしてそれを支えているのが、
春と夏の全国大会が公共放送で全試合生中継され、
その面白さを全国民レベルで
共有できてしまうところなのです。
一部からは
「試合が面白いのだから、いまのままでいいじゃないか」
という意見も聞かれますが、
それは高校野球の思い上がりです。
他の競技、例えば高校ラグビーの全国大会が
野球と同じ条件で放送され、
同じようにメディアで取り上げられていれば、
その面白さは高校野球並みに伝わるはずです。
そのため私個人としては、
高校野球だけが特別に面白い競技だとは思いません。
いまの高校野球は嫌いなところがたくさんあります
こうした大きな舞台で野球をやらせてもらっている私たちが、
それを一方的に批判するのはおかしな話かもしれません。
ただ私自身、いまの高校野球は嫌いなところがたくさんあります。
それゆえに現状を変えていきたいからこそ、
指導者として高校野球に携わっています。
繰り返しになりますが、
高校野球には大人が作り出した強い固定観念があります。
全力疾走、汗、涙……。
それらを良識ある大人であるはずの関係者やメディア、ファンが求め、
高校生が自由な意思で身動きをとれない状況は
おかしいと言わざるを得ません。
後略
▲
森林貴彦の主張に従うと、
「栄冠は君に輝く」の歌詞も
日本の若者たち、高校球児たちに対する
大人の勝手な押し付けであり、
これまでの日本の高校野球の歴史や
数々の名勝負の感動などは全て唾棄すべき
くだらないものだ
ということにならざるをえません。
何故、高校野球が
巨大なエンターテイメント
であってはいけないのか?
何故、高校野球が
夏の風物詩であってはいけないのか?
何故、高校野球が
お祭りであってはいけないのか?
慶応高校野球部員を含め
日本全国の高校球児から
「俺たちに
青春とか、汗とか涙とか、全力疾走とか
勝手なイメージを
押し付けて強制するな」
という悲鳴が
森林貴彦の元に届いているのか?
一般の我々正常な日本国民にとっては
完全な謎ですが
森林貴彦の主張は要するに
これまでの
過去の感動的な高校野球は、
俺様の好みに合わないから、
全部ぶちこわして
俺さま好みの、
ドラマも感動もなく、
ヒーローも存在しない、
ニヒリスティックで無機質で
ただ高校生が野球をやってるだけ
そういうものに改造しなければならない。
ということに他なりません。
(狂人・森林貴彦よ
圧倒的大多数の正常な日本国民は
昔ながらの甲子園を愛し、支持している
思いあがっているのはテメエだ。)
また、
森林貴彦の主張の主たるものとして
「高校野球を特別扱いするな」
「高校野球を神聖視するな」
というものがあります、
その一方で、森林貴彦は
日本の野球人口、野球少年の減少を
憂いているようなポーズをとります。
当然
「丸刈り廃止、髪型の自由化」も
そういう文脈の中でのものです。
しかし、この森林貴彦および
スポーツグラフィックナンバー関係者の主張は
(丸刈りをやめ
髪型を自由にすることで
野球人口が増えるという)
矛盾と悪意に満ちた
詐欺的な詭弁で、
それを教えてくれるのが
前回も引用した
テニスの聖地ウインブルドンにおける
「白以外のウェア厳禁」という
伝統と慣習がもたらす様々な恩恵です。
再度、引用します。
https://tennismysteries.com/wimbledon-white/
▼
前略
ウィンブルドンの主催者は、
かつてこう言いました。
「白のドレスコードは
ファッションのためではなく
テニスとテニス選手の価値を
際立たせるため」
伝統を守ることは大きな価値をもたらす
と考えられているのです。
中略
選手の服装は白であるだけでなく
「ウィンブルドンにふさわしい品を保つこと」
とされています。
ウィンブルドンという場に「ふさわしい」こと、
「ちゃんとしてる」ことが、
ウィンブルドンが大切にしている価値なのです。
▲
https://uwanosorajikenbo.hatenablog.com/entry/2016/05/29/223806
▼
前略
真っ白いテニスウェア姿の選手は
誇るべき伝統の理想の姿であるから。
伝統は守り理想を追求して何かいけないのか。
そこにきっと言葉にできる理由はない。
そして、伝統は威光(権威)を演出する。
ウィンブルドンはまちがいなく
威光(権威)の獲得に成功している。
威光(権威)は、
いろんな方面にとても便利なツールだ。
たとえばイベントとしての価値。
ウィンブルドンは
私設の小さなテニスクラブが主催しているのに、
テニスの世界で首位を争う賞金を提供している
世界屈指のイベントである。
また、グランドスラム中
最も黒字のイベントである。
これはウィンブルドンの
威光(権威)のおかげではないのか。
ウィンブルドンでは、
スポンサーの広告表示をしなくても、
潤沢なスポンサーにサポートされている。
ウィンブルドンのスタッフはボランティアが多く、
賃金を支払われているスタッフも
ごく普通の給料を支払われているだけだという。
ウィンブルドンで働くという誇りで
スタッフは満たされているのだ。
社会的にもウィンブルドンでの仕事経験は
高く評価されるものであるという。
これらはウィンブルドンの
頑な白規制
(による伝統・慣習の墨守とそれによる権威)も
一役買っているに違いない。
後略
▲
上記の内容を要約すると
こう↓です。
▼
ウインブルドンというテニスの大会は
「白以外のウェアを厳禁とする」
(ウインブルドンにふさわしい品を保つ、
ちゃんとした服装をする)
という
伝統と慣習を守ることによって
醸し出される権威によって
ウインブルドンというイベント、
大会の価値を高め
グランドスラム中、
最も黒字の大会として大成功しており、
また、スポンサーの広告表示をしなくとも
スポンサーになりたがる企業が
殺到するという事態を生んでいる。
また、
ウインブルドンで働くスタッフは
ボランティアが多く、
給料を受け取っているスタッフも
低額で満足している。
その理由は
ウインブルドンで働くという誇りで
スタッフは満たされているから。
そしてウインブルドンでの仕事経験は
社会的にも高く評価される。
これらはすべて
ウインブルドンが頑なに守り通している
伝統と慣習によってもたらされる
権威による影響だ。
▲
以上の事実を
我が国の高校野球に当てはめて考えると
↓のようなことが見えてきます。
▼
我々、日本国民が気づいていないだけで
「高校球児の丸刈り」
という伝統と慣習
およびそれらがもたらす権威は
「栄冠は君に輝く」という
名曲の存在との相乗効果によって
春夏の甲子園=高校野球というイベントを
他の競技スポーツの大会とは違った
純粋で神聖で特別なものとして
日本の野球少年や
日本国民に認識させ、
それが
高校野球に対する
日本国民の大きな憧れや支持につながっている
ということです。
▲
「野球人口が減ってるから
丸刈りを根絶やしにしろ」
と
スポーツグラフィックナンバー関係の
頭のおかしな奴らが
わめきちらしていますが
今の日本では
丸刈りなのは高校球児だけで、
少年野球では髪型は自由であり、
野球人口減少の理由は単純に
野球以外のやりたいスポーツに関する
子供たちの選択肢が増えたからということと
ゲームなどの普及により
遊びとしてスポーツを行う子供自体が減ったこと
等によるものであって
(球数制限の結果、
日本の野球人口が
どれくらい増えたのか
明らかにしてほしいものです。)
森林貴彦や、その一味の
日本の頭のおかしな
反日鬼畜左翼スポーツライターが画策するように
甲子園=高校野球の丸刈り文化という
高校野球の長い歴史の中で
もはや伝統、慣習と化した
暗黙のルール、ならわしを破壊し、
甲子園=高校野球が
これまでまとっていた
「純粋さ」という
神聖なベールが引きはがされ
日本の反日鬼畜左翼スポーツマスコミが
不気味なまでに美化絶賛する
サラサラヘアーの
どこにでもいる
「のっぺりした顔」の高校生ばかりが
甲子園の高校球児の多数派となり
日本の高校野球が
他の高校生のスポーツ競技と
何ら差異のないものとなった時
日本の野球人口は加速度的に減少し、
競技スポーツとしての日本の野球は
崩壊の危機を迎えることは確実で
そういう事態こそ、
森林貴彦とその一味である
スポーツグラフィックナンバーを始めとする
反日鬼畜左翼スポーツマスコミ関係者の狙いです。
侍ジャパンのラーズ・ヌートバー選手の母、
久美子さんは
少年の頃のヌートバー選手に対して
https://full-count.jp/2023/02/04/post1334283/
「野球は特別に重要なものだから
野球に敬意を表す意味で
丸刈りにしなさい」
と教えましたが
森林貴彦は
久美子さんと全く一八〇度正反対に
「野球を特別視するな、神聖視するな
他のスポーツと同じところへ
野球を引きずりおろせ
そのために
丸刈りを廃止して、髪型を自由にしろ
髪型が自由な俺たちが優勝したんだぞ
なんか文句でもあるのか?」
と、わめき散らしているのです。
高野連によって
丸刈りが強制されているわけでもなく
「戦前から慶応高校野球部では
髪型が自由であった」こと
に感謝し、満足するどころか、
「丸刈りの高校球児が
今でも沢山甲子園に出てくるのは
俺さまの目障りだ
俺たちが甲子園で優勝することで
丸刈りの奴らを根絶やしにしてやる」
という
多様性を欠いた全体主義的で
不気味な態度をむき出しにする
慶応高校野球部監督・森林貴彦は
日本人ではありません。
森林貴彦の正体は、
日本の国を、日本国民を
日本のスポーツ文化を
日本の高校野球文化を敵視、憎悪し、
その破壊と衰退を目論む
頭のおかしな反日コリ〇ンです。
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「白以外のテニスウェア厳禁」という
「伝統と慣習」を大切に守ってきた
英国人の叡智に関する記述を読んで
改めて気づいたことがあります。
それは
慶応高校野球部監督・森林貴彦の
「日本の高校野球文化に対する
恐ろしいまでの敵意と憎悪」
です。
甲子園を中心とする
我が国の高校野球文化の
その未曽有の隆盛を支えてきた
名曲「栄冠は君に輝く」の歌詞↓と
▼
雲はわき 光あふれて
天高く 純白の球、今日ぞ飛ぶ
若人よいざ まなじりは歓呼にこたえ
いさぎよし ほほえむ希望
ああ栄冠は君に輝く
風をうち 大地をけりて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ 技ぞ
若人よいざ 一球に一打にかけて
青春の讃歌をつづれ
ああ栄冠は君に輝く
空をきる 球の命に
かようもの 美しくにおえる健康
若人よいざ 緑濃き しゅろの葉かざす
感激をまぶたにえがけ
ああ栄冠は君に輝く
▲
そのメロディ↑を目や耳にして
感動しない日本国民はいないはずだと
当ブログは漠然と考えてきました。
「栄冠は君に輝く」の歌詞とメロディには
日本の高校球児、若者たちに対する
我が国の先人の皆様方の
限りない愛情が込められています。
(作詞した加賀大介は野球球児であったが、
試合中の怪我による骨髄炎のために
右足切断を余儀無くされ、
野球を断念した経緯がある。
この詞には、野球に対する
加賀の熱い想いが強く込められている。)
そして、
長い長い高校野球の歴史を通じ、
これまでずっと
甲子園を目指す球児たちは
「栄冠は君に輝く」の歌詞やメロディを
目や耳にすることで
甲子園に対する憧れを
大きく大きくふくらませ
甲子園を目指し、
「栄冠は君に輝く」の歌詞を具現化したかのように、
一球に一打にかけて青春の讃歌をつづり
(負けたら終わりのトーナメント戦であるがゆえに)
数々の感動的な名勝負を生み出し
多くの日本国民、日本の野球少年たちに
たくさんの夢や希望を与えてきました。
しかし、
この過去の日本の高校野球の素晴らしい歴史、
ドラマ、感動を全否定し
そのすべてを破壊することに血道をあげる
狂人・犯罪者が
令和の日本に現れました。
それが慶応高校野球部監督
森林貴彦です。
森林貴彦は
反日鬼畜左翼スポーツマスコミ関係者の巣窟である
スポーツグラフィックナンバー誌上で
↓のように述べています。
▼
前略
青春の押し付け問題
大人が選手を
自分好みのストーリーに当てはめようとする、
いわば、青春の押し付け問題。
これも高校野球が抱える、
そして解決していかなければならない
大きな課題の一つです。
高校野球はシンプルに言えば、
高校生がただ野球をやっているだけですが、
真夏の風物詩や
お祭りのように捉えている人が多く、
もはや非常に巨大な
エンターテインメントとなっています。
新たなヒーローの出現や
感動的なゲームを望むファンがいて、
また、それを売り込んでいこうとするメディアの存在もある。
そこで過剰に膨らまされたドラマに、
それを望むファンが喜んで食いつく。
こうした土壌が高校野球にはあると思います。
そしてそれを支えているのが、
春と夏の全国大会が公共放送で全試合生中継され、
その面白さを全国民レベルで
共有できてしまうところなのです。
一部からは
「試合が面白いのだから、いまのままでいいじゃないか」
という意見も聞かれますが、
それは高校野球の思い上がりです。
他の競技、例えば高校ラグビーの全国大会が
野球と同じ条件で放送され、
同じようにメディアで取り上げられていれば、
その面白さは高校野球並みに伝わるはずです。
そのため私個人としては、
高校野球だけが特別に面白い競技だとは思いません。
いまの高校野球は嫌いなところがたくさんあります
こうした大きな舞台で野球をやらせてもらっている私たちが、
それを一方的に批判するのはおかしな話かもしれません。
ただ私自身、いまの高校野球は嫌いなところがたくさんあります。
それゆえに現状を変えていきたいからこそ、
指導者として高校野球に携わっています。
繰り返しになりますが、
高校野球には大人が作り出した強い固定観念があります。
全力疾走、汗、涙……。
それらを良識ある大人であるはずの関係者やメディア、ファンが求め、
高校生が自由な意思で身動きをとれない状況は
おかしいと言わざるを得ません。
後略
▲
森林貴彦の主張に従うと、
「栄冠は君に輝く」の歌詞も
日本の若者たち、高校球児たちに対する
大人の勝手な押し付けであり、
これまでの日本の高校野球の歴史や
数々の名勝負の感動などは全て唾棄すべき
くだらないものだ
ということにならざるをえません。
何故、高校野球が
巨大なエンターテイメント
であってはいけないのか?
何故、高校野球が
夏の風物詩であってはいけないのか?
何故、高校野球が
お祭りであってはいけないのか?
慶応高校野球部員を含め
日本全国の高校球児から
「俺たちに
青春とか、汗とか涙とか、全力疾走とか
勝手なイメージを
押し付けて強制するな」
という悲鳴が
森林貴彦の元に届いているのか?
一般の我々正常な日本国民にとっては
完全な謎ですが
森林貴彦の主張は要するに
これまでの
過去の感動的な高校野球は、
俺様の好みに合わないから、
全部ぶちこわして
俺さま好みの、
ドラマも感動もなく、
ヒーローも存在しない、
ニヒリスティックで無機質で
ただ高校生が野球をやってるだけ
そういうものに改造しなければならない。
ということに他なりません。
(狂人・森林貴彦よ
圧倒的大多数の正常な日本国民は
昔ながらの甲子園を愛し、支持している
思いあがっているのはテメエだ。)
また、
森林貴彦の主張の主たるものとして
「高校野球を特別扱いするな」
「高校野球を神聖視するな」
というものがあります、
その一方で、森林貴彦は
日本の野球人口、野球少年の減少を
憂いているようなポーズをとります。
当然
「丸刈り廃止、髪型の自由化」も
そういう文脈の中でのものです。
しかし、この森林貴彦および
スポーツグラフィックナンバー関係者の主張は
(丸刈りをやめ
髪型を自由にすることで
野球人口が増えるという)
矛盾と悪意に満ちた
詐欺的な詭弁で、
それを教えてくれるのが
前回も引用した
テニスの聖地ウインブルドンにおける
「白以外のウェア厳禁」という
伝統と慣習がもたらす様々な恩恵です。
再度、引用します。
https://tennismysteries.com/wimbledon-white/
▼
前略
ウィンブルドンの主催者は、
かつてこう言いました。
「白のドレスコードは
ファッションのためではなく
テニスとテニス選手の価値を
際立たせるため」
伝統を守ることは大きな価値をもたらす
と考えられているのです。
中略
選手の服装は白であるだけでなく
「ウィンブルドンにふさわしい品を保つこと」
とされています。
ウィンブルドンという場に「ふさわしい」こと、
「ちゃんとしてる」ことが、
ウィンブルドンが大切にしている価値なのです。
▲
https://uwanosorajikenbo.hatenablog.com/entry/2016/05/29/223806
▼
前略
真っ白いテニスウェア姿の選手は
誇るべき伝統の理想の姿であるから。
伝統は守り理想を追求して何かいけないのか。
そこにきっと言葉にできる理由はない。
そして、伝統は威光(権威)を演出する。
ウィンブルドンはまちがいなく
威光(権威)の獲得に成功している。
威光(権威)は、
いろんな方面にとても便利なツールだ。
たとえばイベントとしての価値。
ウィンブルドンは
私設の小さなテニスクラブが主催しているのに、
テニスの世界で首位を争う賞金を提供している
世界屈指のイベントである。
また、グランドスラム中
最も黒字のイベントである。
これはウィンブルドンの
威光(権威)のおかげではないのか。
ウィンブルドンでは、
スポンサーの広告表示をしなくても、
潤沢なスポンサーにサポートされている。
ウィンブルドンのスタッフはボランティアが多く、
賃金を支払われているスタッフも
ごく普通の給料を支払われているだけだという。
ウィンブルドンで働くという誇りで
スタッフは満たされているのだ。
社会的にもウィンブルドンでの仕事経験は
高く評価されるものであるという。
これらはウィンブルドンの
頑な白規制
(による伝統・慣習の墨守とそれによる権威)も
一役買っているに違いない。
後略
▲
上記の内容を要約すると
こう↓です。
▼
ウインブルドンというテニスの大会は
「白以外のウェアを厳禁とする」
(ウインブルドンにふさわしい品を保つ、
ちゃんとした服装をする)
という
伝統と慣習を守ることによって
醸し出される権威によって
ウインブルドンというイベント、
大会の価値を高め
グランドスラム中、
最も黒字の大会として大成功しており、
また、スポンサーの広告表示をしなくとも
スポンサーになりたがる企業が
殺到するという事態を生んでいる。
また、
ウインブルドンで働くスタッフは
ボランティアが多く、
給料を受け取っているスタッフも
低額で満足している。
その理由は
ウインブルドンで働くという誇りで
スタッフは満たされているから。
そしてウインブルドンでの仕事経験は
社会的にも高く評価される。
これらはすべて
ウインブルドンが頑なに守り通している
伝統と慣習によってもたらされる
権威による影響だ。
▲
以上の事実を
我が国の高校野球に当てはめて考えると
↓のようなことが見えてきます。
▼
我々、日本国民が気づいていないだけで
「高校球児の丸刈り」
という伝統と慣習
およびそれらがもたらす権威は
「栄冠は君に輝く」という
名曲の存在との相乗効果によって
春夏の甲子園=高校野球というイベントを
他の競技スポーツの大会とは違った
純粋で神聖で特別なものとして
日本の野球少年や
日本国民に認識させ、
それが
高校野球に対する
日本国民の大きな憧れや支持につながっている
ということです。
▲
「野球人口が減ってるから
丸刈りを根絶やしにしろ」
と
スポーツグラフィックナンバー関係の
頭のおかしな奴らが
わめきちらしていますが
今の日本では
丸刈りなのは高校球児だけで、
少年野球では髪型は自由であり、
野球人口減少の理由は単純に
野球以外のやりたいスポーツに関する
子供たちの選択肢が増えたからということと
ゲームなどの普及により
遊びとしてスポーツを行う子供自体が減ったこと
等によるものであって
(球数制限の結果、
日本の野球人口が
どれくらい増えたのか
明らかにしてほしいものです。)
森林貴彦や、その一味の
日本の頭のおかしな
反日鬼畜左翼スポーツライターが画策するように
甲子園=高校野球の丸刈り文化という
高校野球の長い歴史の中で
もはや伝統、慣習と化した
暗黙のルール、ならわしを破壊し、
甲子園=高校野球が
これまでまとっていた
「純粋さ」という
神聖なベールが引きはがされ
日本の反日鬼畜左翼スポーツマスコミが
不気味なまでに美化絶賛する
サラサラヘアーの
どこにでもいる
「のっぺりした顔」の高校生ばかりが
甲子園の高校球児の多数派となり
日本の高校野球が
他の高校生のスポーツ競技と
何ら差異のないものとなった時
日本の野球人口は加速度的に減少し、
競技スポーツとしての日本の野球は
崩壊の危機を迎えることは確実で
そういう事態こそ、
森林貴彦とその一味である
スポーツグラフィックナンバーを始めとする
反日鬼畜左翼スポーツマスコミ関係者の狙いです。
侍ジャパンのラーズ・ヌートバー選手の母、
久美子さんは
少年の頃のヌートバー選手に対して
https://full-count.jp/2023/02/04/post1334283/
「野球は特別に重要なものだから
野球に敬意を表す意味で
丸刈りにしなさい」
と教えましたが
森林貴彦は
久美子さんと全く一八〇度正反対に
「野球を特別視するな、神聖視するな
他のスポーツと同じところへ
野球を引きずりおろせ
そのために
丸刈りを廃止して、髪型を自由にしろ
髪型が自由な俺たちが優勝したんだぞ
なんか文句でもあるのか?」
と、わめき散らしているのです。
高野連によって
丸刈りが強制されているわけでもなく
「戦前から慶応高校野球部では
髪型が自由であった」こと
に感謝し、満足するどころか、
「丸刈りの高校球児が
今でも沢山甲子園に出てくるのは
俺さまの目障りだ
俺たちが甲子園で優勝することで
丸刈りの奴らを根絶やしにしてやる」
という
多様性を欠いた全体主義的で
不気味な態度をむき出しにする
慶応高校野球部監督・森林貴彦は
日本人ではありません。
森林貴彦の正体は、
日本の国を、日本国民を
日本のスポーツ文化を
日本の高校野球文化を敵視、憎悪し、
その破壊と衰退を目論む
頭のおかしな反日コリ〇ンです。
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