不気味で邪悪な慶応高校・森林貴彦とその仲間たち
文化破壊
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夏の甲子園大会で優勝した慶応高校野球部ですが、
慶応高校監督・森林貴彦は
「丸刈り」を始めとする
日本の高校野球の伝統や慣習を激しく批判、
その森林貴彦と完全に一体化し
慶応高校の応援団と化した
スポーツグラフィックナンバー関係者を始めとする
日本の頭のおかしな
反日鬼畜左翼スポーツマスコミ
反日鬼畜左翼マスコミが大挙して、徒党を組み
「エンジョイベースボール」だの、
「自主性」だの、
「髪型が自由」だの、
「練習時間が短い」だのと
わめき散らしながら
慶応高校を大絶賛する一方、
広陵高校を始め
慶応高校と対戦し敗れた対戦校に対して
「(丸刈りであることとからめ)
自分の頭で物事を考えない
旧態依然とした悪しき昭和的野球」
というようなレッテルを貼り、貶める
というような愚行を繰り返したこともあり、
また、
慶応高校関係者ら(OBによる)による
日本人らしくない
不気味な恫喝的応援に関する問題を含め、
非常に大きな批判や議論を呼んでいます。
当ブログでは、
「日本の高校野球の伝統や慣習を守ることが
日本の国を、日本国民を守ることにつながる」
という考えに基づき
今回の慶応バンザイ報道の不気味さと
その原因に関し
以下に批判的考察を進めます。
今や日本の高校野球の伝統・慣習となった
高校球児たちの丸刈り文化を考える上で、
テニスの聖地ウインブルドンにおける
「白のウエア以外は厳格に禁止」
という
伝統・慣習に対する英国人の態度は
非常に参考になります。
https://tennismysteries.com/wimbledon-white/
▼以下↑から引用。
前略
それでもなぜ白なのか。
それは、
伝統だからです。
伝統を変えないことが
ウィンブルドンにとっては、
とても大事なことなのだそうです。
ウィンブルドンの主催者は、かつてこう言いました。
「白のドレスコードは
ファッションのためではなく
テニスとテニス選手の価値を
際立たせるため」
伝統を守ることは大きな価値をもたらす
と考えられているのです。
中略
選手の服装は白であるだけでなく
「ウィンブルドンにふさわしい品を保つこと」
とされています。
ウィンブルドンという場に「ふさわしい」こと、
「ちゃんとしてる」ことが、
ウィンブルドンが大切にしている価値なのです。
中略
ウィンブルドンでみなが
白を着用しなければならないのは、
もともとは汗じみが目につかないようにするためであったが、
今では伝統を守るためである。
白を着ないとどうなるの?
ドレスコードに違反していると、試合に出られません。
試合中に違反が見つかると、着替えさせられます。
それはシューズの裏にも下着にも及びます。
汗をかいて透けたり動いたとき見えてしまう下着も
白じゃなければいけないと、
ドレスコードにはきっちり書かれています。
なぜそんなに白に厳しいの?
ウィンブルドンのドレスコードが
あまりにも厳しいことは、とても有名で、
違反を指摘されたりしたら、
さっそく世界のニュースになります。
そのたびに、
何のためにこんなに厳しくするのか、
と主催者は聞かれるわけですが、
伝統を守るため的なお決まりの答えが返ってきます。
そして前述したように、
白のドレスコードはファッションのためではなく
テニスとテニス選手の価値を
際立たせるためと言っています。
後略
▲以上、引用
もう一つ、
ウインブルドンにおける
白のウエア以外禁止という
伝統・慣習に関し、
https://uwanosorajikenbo.hatenablog.com/entry/2016/05/29/223806
▼↑から以下引用
前略
イギリスの新聞the guardianで、
ウィンブルドンの白について、
こんな記事を見た覚えがある。
「ウィンブルドンの白は、
ただの色ではなく
理想なのだ」
白は、イギリスでは夏の色、
平和なのんきさを象徴する色、
穢れなきものの色、
信念を表す色、
希望と神秘の色、
答えを語らない色。
白い服は汗以外にも
様々な汚れを吸い取り滲みにして
数回洗えばグレーになってしまう服。
ほんのひと時だけ白として輝く服。
白い服の魅力は
この一瞬の輝きにあるのかもしれない。
ウィンブルドンの白は
単なる色ではなくて
理想そのものなのだ。・・・・
一瞬の輝きに魅力を感じるなんて
日本の散りゆく桜みたいではないか。
で、なぜ取り締まるほど
白にこだわるのかについての明確な回答は
書いてなかったような気がするけれど、
これはなんていうか、
いわゆる
「落書きを消す効果」
のようなことなのかと想像した。
ほとんど白といって
少しの色を認めた場合、
少しが少しずつ増え、
やがてはどこかに白が見えればOKにとなり、
白規定は有名無実となるのではないか。
だから、小さいことを一つずつ潰していこう。
大きくなる前に手を打とうという発想かと。
なぜならこれは伝統だから。
真っ白いテニスウェア姿の選手は
誇るべき伝統の理想の姿であるから。
伝統は守り理想を追求して何かいけないのか。
そこにきっと言葉にできる理由はない。
そして、伝統は威光を演出する。
ウィンブルドンはまちがいなく
威光の獲得に成功している。
威光は、いろんな方面にとても便利なツールだ。
たとえばイベントとしての価値。
ウィンブルドンは
私設の小さなテニスクラブが主催しているのに、
テニスの世界で首位を争う賞金を提供している
世界屈指のイベントである。
また、グランドスラム中最も黒字のイベントである。
これはウィンブルドンは威光のおかげではないのか。
ウィンブルドンでは、
スポンサーの広告表示をしなくても、
潤沢なスポンサーにサポートされている。
ウィンブルドンのスタッフはボランティアが多く、
賃金を支払われているスタッフも
ごく普通の給料を支払われているだけだという。
ウィンブルドンで働くという誇りで
スタッフは満たされているのだ。
社会的にもウィンブルドンでの仕事経験は
高く評価されるものであるという。
これらはウィンブルドンの
頑な白規制
(による伝統・慣習の墨守とそれによる権威)も
一役買っているに違いない。
後略
▲以上引用。
最後に、
先ごろ行われたWBCにおいて大活躍した
侍ジャパンの斬り込み隊長
ラーズ・ヌートバー選手の少年時代に関し
https://full-count.jp/2023/02/04/post1334283/
▼↑から以下、引用
前略
「野球がどれだけ重要なものかは、
母に教え込まれたと思う」
と(ヌートバー選手は)原点を振り返る。
中略
ソフトボール選手だった母の教えとして
「野球に敬意を表して、
すべてきちんとやるようにと。
(母に言われて)必ず
ベースボールヘアカットの
丸刈りにさせられた。
ささいなことが大事だと教えてくれた」
と今でも胸に留める。
後略
▲以上、引用
「少年の日の一時期を修業期間と捉え、
その間は余計なことを考えず
純粋に野球に没頭する」
という
日本独特の美しい伝統・慣習を
目に見える型として表現したものが
「高校球児の丸刈り文化」です。
その効果としては多くの方が指摘するように、
同じ髪型による
仲間意識、団結心の醸成
という意味もあるでしょう。
日本の頭のおかしな
反日鬼畜左翼スポーツマスコミ関係者らは、
「丸刈りだとカッコ悪い、
女にもてないから野球人口が減る」
と言います。
しかし、そういう考え方は
整形手術で全てを解決しようとする
どこかの国と同じで、
低レベル極まりなく、
日本人の考え方ではありません。
WBCで大活躍したヌートバー選手のお母さんは
ヌートバー選手に対して
「野球はものすごく重要なものだから
野球に対する敬意を表すために
丸刈りにしなさい」
と教えたそうですが、
日本人であるなら
「純粋に野球に打ち込むことで
髪型に左右されないような
良い顔の男、カッコ良い男になれ」と
自信を持って言うべきです。
ブログ主は関西の某・甲子園常連の
野球強豪校出身ですが、
(野球部員ではありません)
野球部の友達は皆、
丸刈りでも良い顔をした
魅力的でカッコ良い奴らばかりでした。
野球部の生徒は同じ丸刈りでも
他の運動部とはどこか違って
一目でわかるんですよね。
また、
「丸刈り」という髪型は
「誤魔化し」がききません。
その人間の
「表情の良し悪し、人間の中身」が
直接出ます。
丸刈りを始めとする
日本の高校野球文化に対する
慶応高校監督・森林貴彦の
異常なまでに否定的で、
攻撃的な発言の数々を目にして
ブログ主が感じたのは、
「森林貴彦は日本人ではないのではないか」
ということです。
何故なら、
日本人であることに対する自信や誇り、
日本の国に対する自信や誇りを持っていれば、
日本の先人の皆様方が大切に守り継承してきた
「高校野球の丸刈り文化」
に関しても、
どういう意味があるんだろう?と
真剣に考えるものです。
ところが、
森林貴彦は始めから
丸刈り文化を思考停止と決めつけ
丸刈り文化を含む
日本の高校野球文化というものを
「間違ったもの、劣ったもの」
として認識、否定し
それらを狂ったように
破壊しようとしているからです。
慶応高校野球部では
戦前から髪型は自由で、
近年は特に
慶応を受験するための偏差値のハードルを下げるなどし
有望な中学年代の野球少年を他府県から
積極的に勧誘するなど
野球部の強化に全力を挙げている
という事実は伏せながら
あたかも
「丸刈りでなく
髪型が自由だから
慶応は優勝した」
と言わんばかりの
森林貴彦および
森林と完全に一体化した
スポーツグラフィックナンバー関係者を中心とする
日本の頭のおかしな
反日鬼畜左翼マスコミ、
反日鬼畜左翼スポーツマスコミは
「日本の若者たちの
修業期間における丸刈り」
という
日本独自の美しい伝統・慣習を
破壊したくてたまらないだけなのです。
森林貴彦が断定するように
丸刈りが思考停止の象徴であるなら、
イチロー、松井秀喜、松坂大輔、大谷翔平を始め
過去と今現在の偉大なプロ野球選手や
日本人メジャーリーガーが全員
「思考停止の日本の丸刈り文化」および
森林貴彦が
敵視、憎悪し、
破壊したくてたまらない
「思考停止した
悪しき日本の
高校野球文化」
によって
育まれたことになります。
だとすれば、
今後も第二、第三の
イチロー、松井秀喜、松坂大輔、大谷翔平を
生み出すために
「思考停止の丸刈り文化」を
我々日本国民は
絶対に死守しなければならない。
というのが正しい結論です。
何故なら寡聞にして
「髪型が自由の慶応高校から
イチロー、松井秀喜、
松坂大輔、大谷翔平
その他をしのぐ
偉大なプロ野球選手が
次から次へと生まれた」
という話は聞いたことがないからです。
「慶応高校野球部の髪型が
自由なのは戦前から」
という事実そのものが
高野連や日本の高校野球には
戦前から多様性があった
ということを示していますし、
(丸刈りというのは
長い間にわたり続いてきた結果、
既に日本の伝統・慣習となっており、
これを野球部の規則とすることは
各高等学校の自由であり、
もし丸刈りが嫌ならば
学生が他の学校を選べばいいという
ただそれだけの話です。
であるにもかかわらず
日本の高校野球の
丸刈り文化に対する
不気味で異常なまでの
敵意と憎悪をむき出しにし、
丸刈り文化という
日本の伝統・慣習を
根絶やしにしようと狂奔する
森林貴彦と
日本の反日鬼畜左翼マスコミ関係者は
完全に狂っています。)
他府県から有望選手を
積極的に勧誘するなどし
全国的に名の知られた
有望な中学生が大挙して
慶応に入学している
という事実は伏せながら
日本人の良識や美徳を全く欠いたような
不気味な威圧的大応援団の力を借りて
今回たまたま一度優勝しただけで
「俺たちはエンジョイベースボールで
練習時間も短く自主性を尊重し、
髪型は自由だから優勝した
俺たちが正しいんだ。
日本の過去の高校野球は間違ってるんだ。」
というような態度を露骨に示し
頭のおかしな
反日鬼畜左翼スポーツマスコミと一体になって
丸刈り文化を始めとする
日本の高校野球の守るべき伝統や慣習を
根絶やしにしようとしている
森林貴彦の人間性は、
綺麗ごとばかり並べた
森林貴彦自身の著書の内容とは全く裏腹に
醜悪で傲慢きわまりなく、
どう考えても日本人だとは思えません。
冒頭に引用した文の中に
▼
「ウィンブルドンの白は、
ただの色ではなく理想なのだ」
白は、イギリスでは夏の色、
平和なのんきさを象徴する色、
穢れなきものの色、
信念を表す色、
希望と神秘の色、
▲
とありますが、
これを
▼
「高校球児の丸刈りは、
ただの髪型ではなく
理想なのだ」
「丸刈りは日本では
夏の髪型、
穢れなきものの髪型、
信念を表す髪型、
希望と神秘の髪型、」
▲
↑のように変えても
全く違和感はありません。
ウインブルドンのドレスコードと同じで
日本の高校球児の丸刈りは
「純粋さの象徴」であり、
ウインブルドンのウエアが
白でなければならないのと同じく、
日本人として
絶対に守らなければならない
伝統なのです。
日本を象徴する桜の花と同じように
白いテニスウェアも、
高校球児たちの3年間の丸刈りという
「目に見える型」で表現される
若者の純粋さもすぐに色褪せます。
だからこそ、それを大切にしたいと
正常で賢明な日本人は考えます。
賢明な昔の日本人、
正常な日本人と同じで
英国人は伝統や慣習を大切にします。
何故なら、英国人は
「古いもの・長い間変わらず続いてきたもの」は
良きもの、素晴らしいものだと確信し、
それらを大切に守ろうとするからです。
理屈ではなく、
伝統や慣習、それに伴う権威には
目に見えない先人の叡智が宿っていると
英国人は知っているのです。
ファシズム、社会主義、共産主義を厳しく批判した
自由の騎士であり、
ノーベル経済学賞受賞者の
フリードリヒ・ハイエクは
「伝統とか慣習とかが成長していて
かつこれが大切にされている政治社会とは、
この政治社会を律している
高度に『自(然発)生』的に発展してきたルールに
各個人がおおむね従っているので、
この各個人にとって相互に他の
『各人の行動が高度に予測可能になっている』から、
自然に秩序が維持されていて
この各個人を秩序に従わしめる
(法律や)
強権政治を必要としないのである。
要するに、
『伝統・慣習なくして自由な社会は存在しない』
のである。」
と指摘しています。
法律やルールで強制されなくとも、
日本国民は自主的に
道徳や倫理あるいは
伝統や慣習に従い行動するから
日本は自由な国なのです。
しかし、
ウインブルドンの
「ウエアは白でなければならない」
という慣習が
その伝統を守ろうとする英国人によって
賢明にも
いつからかルール化されたように
ここまで国内の反日鬼畜左翼や反日外国人勢力による
高校球児の丸刈り文化に対する攻撃が露骨で激しい以上、
高野連は丸刈りをルール化すべきでしょう。
日本の頭のおかしな反日鬼畜左翼マスコミ関係者が常に
丸刈り文化のような
日本の伝統や慣習を破壊しようと画策するのは
伝統や慣習が日本国民の自由を守る
「最後の砦」であることを知っているからです。
伝統と慣習を
今現在も大切に守り続ける英国から
近代における
政治的自由の概念が生まれた一方、
伝統と慣習を
徹底的に破壊したフランス革命によって
人権宣言と
自由・平等・博愛という
厚化粧で塗り固められた
フランスは全体主義化し、
(ジャコバン党独裁)
ギロチンがフル稼働し
フランス国王陛下に対して
敬愛の念を持つフランス国民は
数百万人というオーダーで
無差別大量に虐殺されました。
それはさておき、
「高校球児は高校生らしくあれ」
という健全な日本人の良識に対する
頭の悪い連中による攻撃に対しても
一言書いておかなければなりません。
高校生らしく、子供らしく、大人らしく、
警察官らしく、教師らしく、政治家らしく、
全ての「らしさ」が失われた結果、
今の日本の惨状は目を覆うばかりとなっています。
「正しい意味での『らしさ』」
というものも
伝統や慣習と同じく
社会の秩序を守る機能を持っています。
子供が「子供らしく」いられない社会が
健全な社会でないのと同様、
大人が「大人らしく」ない社会も異常です。
そのような社会は衰退し、
いずれ滅ぶしかないでしょう。
このことは男と女に関しても同じで、
幕末や戦国時代に生きた人々が魅力的であるのは、
死と常に隣り合わせのような時代では否応なく、
男が男らしく、
女が女らしくなるからで、
そうならなければ
日本という共同体そのものが生き残れないからです。
今の日本で「ジェンダー平等」云々の寝言が罷り通るのは、
チャイナ、北朝鮮の軍拡や
反日的な政治家・官僚による
大量移民受け入れ政策等によって
日本の国が亡ぶような危機が
目の前に迫っているにもかかわらず
それに日本国民が気づいておらず
ぬるま湯状態に漬かり
日本国民が平和ボケの極致にあるからで、
今のような状態では、
かつてのような危機が日本を襲った際に、
日本が国家共同体として生き残るのは
極めて難しいでしょう。
最後に
日本の全ての野球関係者の皆さんにお願いします。
我々の先人の皆さまが大切に守り、継承してきた
「高校球児たちの丸刈り文化」という
日本にしか存在しない美しい健気な
伝統・慣習を守るために
是非、声を挙げてください。
そのことが結果的に
日本の国や日本国民を守ることに必ずつながって行きます。
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その森林貴彦と完全に一体化し
慶応高校の応援団と化した
スポーツグラフィックナンバー関係者を始めとする
日本の頭のおかしな
反日鬼畜左翼スポーツマスコミ
反日鬼畜左翼マスコミが大挙して、徒党を組み
「エンジョイベースボール」だの、
「自主性」だの、
「髪型が自由」だの、
「練習時間が短い」だのと
わめき散らしながら
慶応高校を大絶賛する一方、
広陵高校を始め
慶応高校と対戦し敗れた対戦校に対して
「(丸刈りであることとからめ)
自分の頭で物事を考えない
旧態依然とした悪しき昭和的野球」
というようなレッテルを貼り、貶める
というような愚行を繰り返したこともあり、
また、
慶応高校関係者ら(OBによる)による
日本人らしくない
不気味な恫喝的応援に関する問題を含め、
非常に大きな批判や議論を呼んでいます。
当ブログでは、
「日本の高校野球の伝統や慣習を守ることが
日本の国を、日本国民を守ることにつながる」
という考えに基づき
今回の慶応バンザイ報道の不気味さと
その原因に関し
以下に批判的考察を進めます。
今や日本の高校野球の伝統・慣習となった
高校球児たちの丸刈り文化を考える上で、
テニスの聖地ウインブルドンにおける
「白のウエア以外は厳格に禁止」
という
伝統・慣習に対する英国人の態度は
非常に参考になります。
https://tennismysteries.com/wimbledon-white/
▼以下↑から引用。
前略
それでもなぜ白なのか。
それは、
伝統だからです。
伝統を変えないことが
ウィンブルドンにとっては、
とても大事なことなのだそうです。
ウィンブルドンの主催者は、かつてこう言いました。
「白のドレスコードは
ファッションのためではなく
テニスとテニス選手の価値を
際立たせるため」
伝統を守ることは大きな価値をもたらす
と考えられているのです。
中略
選手の服装は白であるだけでなく
「ウィンブルドンにふさわしい品を保つこと」
とされています。
ウィンブルドンという場に「ふさわしい」こと、
「ちゃんとしてる」ことが、
ウィンブルドンが大切にしている価値なのです。
中略
ウィンブルドンでみなが
白を着用しなければならないのは、
もともとは汗じみが目につかないようにするためであったが、
今では伝統を守るためである。
白を着ないとどうなるの?
ドレスコードに違反していると、試合に出られません。
試合中に違反が見つかると、着替えさせられます。
それはシューズの裏にも下着にも及びます。
汗をかいて透けたり動いたとき見えてしまう下着も
白じゃなければいけないと、
ドレスコードにはきっちり書かれています。
なぜそんなに白に厳しいの?
ウィンブルドンのドレスコードが
あまりにも厳しいことは、とても有名で、
違反を指摘されたりしたら、
さっそく世界のニュースになります。
そのたびに、
何のためにこんなに厳しくするのか、
と主催者は聞かれるわけですが、
伝統を守るため的なお決まりの答えが返ってきます。
そして前述したように、
白のドレスコードはファッションのためではなく
テニスとテニス選手の価値を
際立たせるためと言っています。
後略
▲以上、引用
もう一つ、
ウインブルドンにおける
白のウエア以外禁止という
伝統・慣習に関し、
https://uwanosorajikenbo.hatenablog.com/entry/2016/05/29/223806
▼↑から以下引用
前略
イギリスの新聞the guardianで、
ウィンブルドンの白について、
こんな記事を見た覚えがある。
「ウィンブルドンの白は、
ただの色ではなく
理想なのだ」
白は、イギリスでは夏の色、
平和なのんきさを象徴する色、
穢れなきものの色、
信念を表す色、
希望と神秘の色、
答えを語らない色。
白い服は汗以外にも
様々な汚れを吸い取り滲みにして
数回洗えばグレーになってしまう服。
ほんのひと時だけ白として輝く服。
白い服の魅力は
この一瞬の輝きにあるのかもしれない。
ウィンブルドンの白は
単なる色ではなくて
理想そのものなのだ。・・・・
一瞬の輝きに魅力を感じるなんて
日本の散りゆく桜みたいではないか。
で、なぜ取り締まるほど
白にこだわるのかについての明確な回答は
書いてなかったような気がするけれど、
これはなんていうか、
いわゆる
「落書きを消す効果」
のようなことなのかと想像した。
ほとんど白といって
少しの色を認めた場合、
少しが少しずつ増え、
やがてはどこかに白が見えればOKにとなり、
白規定は有名無実となるのではないか。
だから、小さいことを一つずつ潰していこう。
大きくなる前に手を打とうという発想かと。
なぜならこれは伝統だから。
真っ白いテニスウェア姿の選手は
誇るべき伝統の理想の姿であるから。
伝統は守り理想を追求して何かいけないのか。
そこにきっと言葉にできる理由はない。
そして、伝統は威光を演出する。
ウィンブルドンはまちがいなく
威光の獲得に成功している。
威光は、いろんな方面にとても便利なツールだ。
たとえばイベントとしての価値。
ウィンブルドンは
私設の小さなテニスクラブが主催しているのに、
テニスの世界で首位を争う賞金を提供している
世界屈指のイベントである。
また、グランドスラム中最も黒字のイベントである。
これはウィンブルドンは威光のおかげではないのか。
ウィンブルドンでは、
スポンサーの広告表示をしなくても、
潤沢なスポンサーにサポートされている。
ウィンブルドンのスタッフはボランティアが多く、
賃金を支払われているスタッフも
ごく普通の給料を支払われているだけだという。
ウィンブルドンで働くという誇りで
スタッフは満たされているのだ。
社会的にもウィンブルドンでの仕事経験は
高く評価されるものであるという。
これらはウィンブルドンの
頑な白規制
(による伝統・慣習の墨守とそれによる権威)も
一役買っているに違いない。
後略
▲以上引用。
最後に、
先ごろ行われたWBCにおいて大活躍した
侍ジャパンの斬り込み隊長
ラーズ・ヌートバー選手の少年時代に関し
https://full-count.jp/2023/02/04/post1334283/
▼↑から以下、引用
前略
「野球がどれだけ重要なものかは、
母に教え込まれたと思う」
と(ヌートバー選手は)原点を振り返る。
中略
ソフトボール選手だった母の教えとして
「野球に敬意を表して、
すべてきちんとやるようにと。
(母に言われて)必ず
ベースボールヘアカットの
丸刈りにさせられた。
ささいなことが大事だと教えてくれた」
と今でも胸に留める。
後略
▲以上、引用
「少年の日の一時期を修業期間と捉え、
その間は余計なことを考えず
純粋に野球に没頭する」
という
日本独特の美しい伝統・慣習を
目に見える型として表現したものが
「高校球児の丸刈り文化」です。
その効果としては多くの方が指摘するように、
同じ髪型による
仲間意識、団結心の醸成
という意味もあるでしょう。
日本の頭のおかしな
反日鬼畜左翼スポーツマスコミ関係者らは、
「丸刈りだとカッコ悪い、
女にもてないから野球人口が減る」
と言います。
しかし、そういう考え方は
整形手術で全てを解決しようとする
どこかの国と同じで、
低レベル極まりなく、
日本人の考え方ではありません。
WBCで大活躍したヌートバー選手のお母さんは
ヌートバー選手に対して
「野球はものすごく重要なものだから
野球に対する敬意を表すために
丸刈りにしなさい」
と教えたそうですが、
日本人であるなら
「純粋に野球に打ち込むことで
髪型に左右されないような
良い顔の男、カッコ良い男になれ」と
自信を持って言うべきです。
ブログ主は関西の某・甲子園常連の
野球強豪校出身ですが、
(野球部員ではありません)
野球部の友達は皆、
丸刈りでも良い顔をした
魅力的でカッコ良い奴らばかりでした。
野球部の生徒は同じ丸刈りでも
他の運動部とはどこか違って
一目でわかるんですよね。
また、
「丸刈り」という髪型は
「誤魔化し」がききません。
その人間の
「表情の良し悪し、人間の中身」が
直接出ます。
丸刈りを始めとする
日本の高校野球文化に対する
慶応高校監督・森林貴彦の
異常なまでに否定的で、
攻撃的な発言の数々を目にして
ブログ主が感じたのは、
「森林貴彦は日本人ではないのではないか」
ということです。
何故なら、
日本人であることに対する自信や誇り、
日本の国に対する自信や誇りを持っていれば、
日本の先人の皆様方が大切に守り継承してきた
「高校野球の丸刈り文化」
に関しても、
どういう意味があるんだろう?と
真剣に考えるものです。
ところが、
森林貴彦は始めから
丸刈り文化を思考停止と決めつけ
丸刈り文化を含む
日本の高校野球文化というものを
「間違ったもの、劣ったもの」
として認識、否定し
それらを狂ったように
破壊しようとしているからです。
慶応高校野球部では
戦前から髪型は自由で、
近年は特に
慶応を受験するための偏差値のハードルを下げるなどし
有望な中学年代の野球少年を他府県から
積極的に勧誘するなど
野球部の強化に全力を挙げている
という事実は伏せながら
あたかも
「丸刈りでなく
髪型が自由だから
慶応は優勝した」
と言わんばかりの
森林貴彦および
森林と完全に一体化した
スポーツグラフィックナンバー関係者を中心とする
日本の頭のおかしな
反日鬼畜左翼マスコミ、
反日鬼畜左翼スポーツマスコミは
「日本の若者たちの
修業期間における丸刈り」
という
日本独自の美しい伝統・慣習を
破壊したくてたまらないだけなのです。
森林貴彦が断定するように
丸刈りが思考停止の象徴であるなら、
イチロー、松井秀喜、松坂大輔、大谷翔平を始め
過去と今現在の偉大なプロ野球選手や
日本人メジャーリーガーが全員
「思考停止の日本の丸刈り文化」および
森林貴彦が
敵視、憎悪し、
破壊したくてたまらない
「思考停止した
悪しき日本の
高校野球文化」
によって
育まれたことになります。
だとすれば、
今後も第二、第三の
イチロー、松井秀喜、松坂大輔、大谷翔平を
生み出すために
「思考停止の丸刈り文化」を
我々日本国民は
絶対に死守しなければならない。
というのが正しい結論です。
何故なら寡聞にして
「髪型が自由の慶応高校から
イチロー、松井秀喜、
松坂大輔、大谷翔平
その他をしのぐ
偉大なプロ野球選手が
次から次へと生まれた」
という話は聞いたことがないからです。
「慶応高校野球部の髪型が
自由なのは戦前から」
という事実そのものが
高野連や日本の高校野球には
戦前から多様性があった
ということを示していますし、
(丸刈りというのは
長い間にわたり続いてきた結果、
既に日本の伝統・慣習となっており、
これを野球部の規則とすることは
各高等学校の自由であり、
もし丸刈りが嫌ならば
学生が他の学校を選べばいいという
ただそれだけの話です。
であるにもかかわらず
日本の高校野球の
丸刈り文化に対する
不気味で異常なまでの
敵意と憎悪をむき出しにし、
丸刈り文化という
日本の伝統・慣習を
根絶やしにしようと狂奔する
森林貴彦と
日本の反日鬼畜左翼マスコミ関係者は
完全に狂っています。)
他府県から有望選手を
積極的に勧誘するなどし
全国的に名の知られた
有望な中学生が大挙して
慶応に入学している
という事実は伏せながら
日本人の良識や美徳を全く欠いたような
不気味な威圧的大応援団の力を借りて
今回たまたま一度優勝しただけで
「俺たちはエンジョイベースボールで
練習時間も短く自主性を尊重し、
髪型は自由だから優勝した
俺たちが正しいんだ。
日本の過去の高校野球は間違ってるんだ。」
というような態度を露骨に示し
頭のおかしな
反日鬼畜左翼スポーツマスコミと一体になって
丸刈り文化を始めとする
日本の高校野球の守るべき伝統や慣習を
根絶やしにしようとしている
森林貴彦の人間性は、
綺麗ごとばかり並べた
森林貴彦自身の著書の内容とは全く裏腹に
醜悪で傲慢きわまりなく、
どう考えても日本人だとは思えません。
冒頭に引用した文の中に
▼
「ウィンブルドンの白は、
ただの色ではなく理想なのだ」
白は、イギリスでは夏の色、
平和なのんきさを象徴する色、
穢れなきものの色、
信念を表す色、
希望と神秘の色、
▲
とありますが、
これを
▼
「高校球児の丸刈りは、
ただの髪型ではなく
理想なのだ」
「丸刈りは日本では
夏の髪型、
穢れなきものの髪型、
信念を表す髪型、
希望と神秘の髪型、」
▲
↑のように変えても
全く違和感はありません。
ウインブルドンのドレスコードと同じで
日本の高校球児の丸刈りは
「純粋さの象徴」であり、
ウインブルドンのウエアが
白でなければならないのと同じく、
日本人として
絶対に守らなければならない
伝統なのです。
日本を象徴する桜の花と同じように
白いテニスウェアも、
高校球児たちの3年間の丸刈りという
「目に見える型」で表現される
若者の純粋さもすぐに色褪せます。
だからこそ、それを大切にしたいと
正常で賢明な日本人は考えます。
賢明な昔の日本人、
正常な日本人と同じで
英国人は伝統や慣習を大切にします。
何故なら、英国人は
「古いもの・長い間変わらず続いてきたもの」は
良きもの、素晴らしいものだと確信し、
それらを大切に守ろうとするからです。
理屈ではなく、
伝統や慣習、それに伴う権威には
目に見えない先人の叡智が宿っていると
英国人は知っているのです。
ファシズム、社会主義、共産主義を厳しく批判した
自由の騎士であり、
ノーベル経済学賞受賞者の
フリードリヒ・ハイエクは
「伝統とか慣習とかが成長していて
かつこれが大切にされている政治社会とは、
この政治社会を律している
高度に『自(然発)生』的に発展してきたルールに
各個人がおおむね従っているので、
この各個人にとって相互に他の
『各人の行動が高度に予測可能になっている』から、
自然に秩序が維持されていて
この各個人を秩序に従わしめる
(法律や)
強権政治を必要としないのである。
要するに、
『伝統・慣習なくして自由な社会は存在しない』
のである。」
と指摘しています。
法律やルールで強制されなくとも、
日本国民は自主的に
道徳や倫理あるいは
伝統や慣習に従い行動するから
日本は自由な国なのです。
しかし、
ウインブルドンの
「ウエアは白でなければならない」
という慣習が
その伝統を守ろうとする英国人によって
賢明にも
いつからかルール化されたように
ここまで国内の反日鬼畜左翼や反日外国人勢力による
高校球児の丸刈り文化に対する攻撃が露骨で激しい以上、
高野連は丸刈りをルール化すべきでしょう。
日本の頭のおかしな反日鬼畜左翼マスコミ関係者が常に
丸刈り文化のような
日本の伝統や慣習を破壊しようと画策するのは
伝統や慣習が日本国民の自由を守る
「最後の砦」であることを知っているからです。
伝統と慣習を
今現在も大切に守り続ける英国から
近代における
政治的自由の概念が生まれた一方、
伝統と慣習を
徹底的に破壊したフランス革命によって
人権宣言と
自由・平等・博愛という
厚化粧で塗り固められた
フランスは全体主義化し、
(ジャコバン党独裁)
ギロチンがフル稼働し
フランス国王陛下に対して
敬愛の念を持つフランス国民は
数百万人というオーダーで
無差別大量に虐殺されました。
それはさておき、
「高校球児は高校生らしくあれ」
という健全な日本人の良識に対する
頭の悪い連中による攻撃に対しても
一言書いておかなければなりません。
高校生らしく、子供らしく、大人らしく、
警察官らしく、教師らしく、政治家らしく、
全ての「らしさ」が失われた結果、
今の日本の惨状は目を覆うばかりとなっています。
「正しい意味での『らしさ』」
というものも
伝統や慣習と同じく
社会の秩序を守る機能を持っています。
子供が「子供らしく」いられない社会が
健全な社会でないのと同様、
大人が「大人らしく」ない社会も異常です。
そのような社会は衰退し、
いずれ滅ぶしかないでしょう。
このことは男と女に関しても同じで、
幕末や戦国時代に生きた人々が魅力的であるのは、
死と常に隣り合わせのような時代では否応なく、
男が男らしく、
女が女らしくなるからで、
そうならなければ
日本という共同体そのものが生き残れないからです。
今の日本で「ジェンダー平等」云々の寝言が罷り通るのは、
チャイナ、北朝鮮の軍拡や
反日的な政治家・官僚による
大量移民受け入れ政策等によって
日本の国が亡ぶような危機が
目の前に迫っているにもかかわらず
それに日本国民が気づいておらず
ぬるま湯状態に漬かり
日本国民が平和ボケの極致にあるからで、
今のような状態では、
かつてのような危機が日本を襲った際に、
日本が国家共同体として生き残るのは
極めて難しいでしょう。
最後に
日本の全ての野球関係者の皆さんにお願いします。
我々の先人の皆さまが大切に守り、継承してきた
「高校球児たちの丸刈り文化」という
日本にしか存在しない美しい健気な
伝統・慣習を守るために
是非、声を挙げてください。
そのことが結果的に
日本の国や日本国民を守ることに必ずつながって行きます。
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