ラグビー田中史朗の叡智と幕末の剣聖・山岡鉄舟先生

応援クリック↓


人気ブログランキングへ

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村



よろしくお願いします。


北朝鮮と小池百合子都知事の関係↓





「国家百万の生霊に代わって

生を捨つるは

素(もと)より余が欲するところなり。」


(「自分の命と引き換えに

多くの日本国民の生命を救えるなら

自分の望むところだ」)


↑の言葉は、

幕末、戊辰戦争の最中に、

徳川家の安泰と

江戸無血開城を実現するため

(江戸の庶民を戦禍から救うために)

江戸へ攻め上る官軍総司令官

西郷隆盛との会談に向かう際の

剣聖・山岡鉄舟先生のものです。

(鉄舟先生は幕府の家来・旗本です。)

以前にもご紹介させて頂きましたが

ラグビー日本代表の田中史朗選手は、

二〇一五年のラグビーW杯に臨むにあたり

奥さんの智美さんに対して


「自分が死んだら新しい良い人を見つけてほしい」

という言葉を伝えていました。

何故、

田中史朗選手は

ラグビーW杯に臨むに際し

死を覚悟する必要があったのか?

平和な時代の今の日本に生きる

凡人の我々には理解するのが難しいですが

山岡鉄舟先生に関する著書の中に、

その答えが明確に示されていました。

以下にご紹介したいと思いますが、

その前に皆さんに分かりやすいように

当時の状況を少し説明すると、

鳥羽伏見の戦いで幕府軍が薩長に敗れ

徳川慶喜公が江戸に帰り、

官軍となった薩長および新政府軍に対して

(官軍とは天皇陛下の軍という意味)

「自分(徳川慶喜公)は今後は抵抗しない」



上野の寛永寺に慶喜公が謹慎し、

何度も官軍に対して様々な方向から使者を通じ

「恭順の意」を示したものの、

西郷隆盛率いる官軍側は

「徳川家を完全に潰すまで戦争は止めない」

として

東海道を攻め上ってきており、

官軍の本営は駿府(今の静岡県)に到着し、

そこからさらに官軍の先鋒は

江戸へ向けて怒涛の進撃を続けていて

東海道は

銃を持った薩長の兵で充満しており、

普通に考えると、

慶喜公の使者として

駿府へ向かう当時全く無名の

旗本・山岡鉄舟先生に

西郷隆盛と会談できる可能性は全くなかったし、

生きて駿府にたどり着ける可能性も九割方ない。

そういう状況でした。

そういう状況の中、

当時、幕府高官だった勝海舟は

鉄舟先生に対して次のように尋ねます。

以下、津本陽著


「勝つ極意 生きる極意(講談社文庫)」

から抜粋引用します。

▼以下、引用

「貴公が駿府に着くまでに、

官軍の陣営にさえぎられるであろうが、

いかようにして突破するか?」


鉄舟は答えた。

「臨機応変は拙者の胸中にござる。

虎口裏に身を横たえる気合じゃ」


官軍の営中に到着すれば、

自分は必ず斬られるか縛されるかのいずれかであろう。

そうなれば自分は双刀を彼らに渡し、尋常に縛につく。

斬るというのなら斬られてやろう。

なにごとも先方に任して処置をうけるが、

敵兵もまた人間である。

是非曲直を問わずに、

無暗に人を殺すわけでもなかろう。

自分の意中をつくす機会は、

なんらかの形で与えてくれるであろうと、

鉄舟はわが意をのべた。


海舟は鉄舟の臨機応変の話を聞き、彼を信じた。

「これが本当だよ。

もしこれを他人にしたならば、

チャンと前から計画するにちがいない。

そんな事では網を張って鳥を得んと思うのたぐいだ。

決して相手はそうくるとは決まっていないからなあ。

ところが山岡なぞは作戦計画はなさずして

作戦計画ができているのだから、

抜け目があるとでも評しようよ。

まあごらんよ。

彼が西郷との談判工合やら、

敵軍中を往来すること、

あたかも坦途広路(平坦な広い道)をゆくが如く、

真に臨機応変のところ、ほとほと感心なるものだ」


鉄舟は剣の修練によって自得した奥儀の呼吸によって、

難局を見事に打開することになったのである。


中略

兵器をたずさえ、

路上の両側に集結する官軍部隊のただなかを

鉄舟は悠々と通過した。

「その中央を通行するに、とむる人なし」という有様である。

鉄舟は殺活自在、神通無碍の剣の呼吸で、

危地にのぞみ、

狐疑、動揺するところまったくなかったのにちがいない。

「隊長の宿営と見ゆる家に到り、

案内を乞わずして立入り、

隊長をたずぬるに、是なるべしと思う人あり。

(後に聞けば篠原国幹なりしと)

すなわち大音にて、

朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、

大総督府へ通ると断りしに、

その人、徳川慶喜、徳川慶喜と、

ふた声小音にていいしのみ、

この家に居合す人、およそ百人ばかりと思えども、

ただ予がほうを見たるばかりなり」


豪勇篠原国幹が気をのまれ、

返答もなりがたいうちに、

鉄舟たちは風のように去っていた。


(注・篠原国幹は薩摩藩士、

人斬り半次郎として恐れられた

桐野利秋と並ぶ示現流の達人

明治新政府の陸軍少将)

▲以上、抜粋引用おわり。

ラグビー日本代表の田中史朗選手は何故

二〇一五年のラグビーW杯の前に

死を覚悟する必要があったのか?

その理由は鉄舟先生が言われているように、


「戦いの場で、

臨機応変の判断を的確にくだすためには

死の恐怖を克服して

精神の自由を得る必要がある」


という事だと思われます。

そして鉄舟先生が

「国家百万の生霊に代わって生を捨つるは

素(もと)より余が欲するところなり」




戦禍に巻き込まれた際の

江戸の庶民の苦しみを想う事で

死地に赴く勇気を奮い起したのと同じように、

ラグビー日本代表の田中史朗選手↓は



ラグビーの試合中や練習中の恐怖を

「チームのために、日本のために」



常に思うことで克服しました。

(田中選手は自分のためではなく、

日本のためにラグビーW杯を戦おうと思ったからこそ

死ぬ覚悟ができたのだと思います。)

私たちが聞きなれた

また

日本のスポーツマスコミに馬鹿にされてきた

「死ぬ気で戦おう」という言葉には

こんなに深い意味があったんですね。


応援クリック↓


人気ブログランキングへ

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村



よろしくお願いします。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント